2019年10月01日
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はじめて陣内先生と会ったのは40数年前です。当時、東京大学の建築史には、本郷に稲垣栄三先生、生産技術研究所(生研)に村松貞次郎先生がいました。私は村松先生の、陣内先生は稲垣先生の研究室に入りました。建築史は、今はわりと希望者も多いですし、こういうシンポジウムにも人が集まりますが、当時は1、2年にひとり学生が入るような状況で、人気もなく“死んだような学問”でした。
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その後、陣内さんはイタリアに留学されて、『都市のルネサンス』(中央公論新社/1978)という本を書かれ、新進気鋭の建築史家として晴れやかに文化の世界にデビューされたわけです。
陣内さんの帰国後、久しぶりに本郷で会いました。そのときに「何をやっているのか」と聞かれたので、「東京建築探偵団という活動をしている」と。東京の街のなかを歩いて、いろいろな忘れられた建物を探すという活動で、学術的な意味があるというより、おもしろいからやっていたんです。だからあまり評価されていなかったし、変なことやっていると周囲からは思われていたのだけれど、陣内さんは「それはすごく大事なことだ」と言うのでびっくりしました。「陣内さんは何やっているの?」と聞いたら、ティポロジアの話をしてくれた。イタリアでは実際に街のなかを文献に照らしながら歩いて、類型学のようなことをやっていると。おぉそうか、と感心しました。
だから、陣内先生は東京建築探偵団をはじめて評価してくれた人だったんです。
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当時は、建築史では都市の研究はあまりされていなかった。つまり、徳川家康がつくった江戸という城下町が、近代化のなかで都市としてどう変わっていったか、現在の東京がどういう街かということが全然わかっていなかった。東京に明治以降のどういった建物が残っているかもわからなかったんです。
それまでのフィールドワークは農村で民家を調べたりするもので、東京はまったく対象になっていなかった。しかし東京には明治以降の近代建築がある。官庁街から丸の内に大量にある。それらが次々になくなっていくのが残念で、とにかく今のうちに何があるのか見ておこう、調べておこうということで調査を始めました。
最初は記念碑的で有名な建物を見ていました。いや、今は有名だけど当時は東京駅も壊すことが発表されていたような時期ですから、そういう建築を調べてみようと活動していました。そうすると、神田あたりに変な建物があるんですよ。のちに「看板建築」と呼ばれるようなものです。ヨーロッパの影響を受けているけれど、中に入ると江戸時代のような建物です。そういうものがとてもおもしろくて調べていると、江戸時代からの伝統を受け継ぐ町家が東京にはほとんど残っていないことに気づいて驚愕しました。そこで、町家を実際に見に行くことに興味が湧きました。
明治期あるいは関東大震災以降の町家はちょこちょこ見つかりましたが、肝心の江戸時代の町家がない。それがどんな建物だったのかわからなければ、その後の町家にどういう特徴があるのかがわからない。江戸の町家の図面や写真は残っていますが、それらからわかることは限られています。なんとか江戸の町家を知りたいと思って探していたけれど、ついに現存するものは1棟も見つからなかった。
現在わかっているのは、「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)に移築した明治5、6年の町家で、それが東京に残っているいちばん古い町家です。実物がないから比べようがないのですが、おそらく江戸時代とそんなに変わらないものだと思います。
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明治以後の町家は自分の研究テーマでしたが、並行してずっと近代のことを調べていました。そういうことをやっている最中に、陣内さんはのちに東京の「空間人類学」と言われるような、地形と街がどういう関係になっていたかを水辺から探る研究を始められました。お互いがわりと補完的というか、並立的な立ち位置にいるという感じがありました。
その途中で、私は赤瀬川原平や南伸坊たちと「路上観察学会」というのを始めてしまいます。そのときは陣内さんのことを結構意識しました。それはね、陣内さんが水辺のことをしきりに言い始めていたから。そのときに、いわば資質の違いをすごく感じたんです。陣内さんは空間的全体を捉える。私は個別のものを捉えようとしている。私の関心は即物的なんですね。私たちは勝手に陣内さんは「空間派」で、われわれは「物件派」だと言っていました。
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路上観察学会では、街を歩いて変わった建物を採集していました。たとえば「江戸川橋病院」という建物は高速道路で切られた先端が極端に細い土地に建っていて、ぜひ中を見たいと思って、医院ですから入ってみたんですよ。僕がカメラと地図を持って入っていったら、お医者さんから「お前、興味本位だろう」と言われて退散しました(笑)。建物のかたちから「カミソリビル」と名付けています。
もしこの建物の端部の幅がもっと広く半間ほどあったら、おそらく目に入らない。つまり純度の高いものが最初に目に飛び込んでくる。われわれの目は鱗だらけで、それが取れないと見えてこないものがある。昔は、西洋館だって誰も知らないし誰も興味をもたなかった。あるいは陣内さんがやっていた水辺と建築の関係も誰も知らなかった。鱗を取る力があるものは、こういう高い純度をもったものなのです。
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僕は路上観察学会のような活動や、その後は設計もするようになったので、陣内さんとは明らかに方向が違ってしまいましたが、陣内さんがやっていることは重要なことです。イタリアに行くとびっくりしますよ。陣内さんはイタリアの田舎の有名人です。マリア信仰があるような洞窟のある山岳都市でレストランに入ったときも、アマルフィに行ったときにも、地元の人から「ジンナイを知ってるか?」と聞かれるほどです。
そして、陣内さんには「中庸の徳」があって、ちゃんと弟子を育てる。本人は育てようと思っているかは知りませんが、法政大学の陣内研究室ではいろいろな人たちが育っていて、本当に素晴らしいことだと思っています。
半世紀近く、私も陣内さんもつまずかずにちゃんとやって来られたものだと思っています。今にして思うのは、建築史というものがわりとオープンで明るくなったことについては、陣内さんや私の影響があるかもわかりません。
(2017年10月10日の講演より)
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藤森照信[ふじもり・てるのぶ]
1946年長野県生まれ。東北大学卒業。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を歴任。東京大学名誉教授、2016年より工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。
主著に『明治の東京計画』岩波書店、建築探偵団の書籍としては『建築探偵の冒険〈東京篇〉』筑摩書房ほか、そのほか『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』六耀社、『藤森茶室指南』彰国社など。建築史、建築探偵、建築設計活動関係の著書多数。
45歳より設計を始める。〈熊本県立農業大学学生寮〉で日本建築学会作品賞。近作に〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉、〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)、史料館・美術館・住宅、茶室など。