法政大学建築フォーラム2017「建築史の可能性への挑戦」講演録|第8回


第8回「〈水都学〉の思想とその到達点」
高村雅彦(建築史家/アジア建築史・都市史)

東京の水辺150年

私からはアジア、そして日本に絞ってお話したいと思います。最初に、今、東京の水辺がおもしろいという話から始めます。
そのひとつであるお台場は、これまであまり正面から評価されてきませんでした。それは、ヨーロッパの長く保存されてきた景観と違って、いろいろな時代のものが雑多に混在しているからだと思います。水辺から対岸の方に目をやると、まず手前に江戸時代のお台場が見え、その向こうに芝浦、日の出、竹芝の各桟橋があります。ここには、大正から戦前にかけては財閥の倉庫がずらりと並び、多くのだるま船が横づけされていました。船そのものが住居であるケースも多くあり、水際と水上それ自体が多くの人々の活動の場となっていたのです。
ところが1960年代に入ると、こうした身体的な水辺が眺めるだけの水辺へと変化します。品川には、広大で殺風景なコンテナ埠頭が完成し、輸送手段も船からトラックに代わることで、水辺から活気がなくなります。しかし、80年代には水辺を利用したロフト文化が流行するようになります。若者が集まるライブハウスやディスコが次々にオープンし、その後もお台場に昼夜問わず人々が遊べる水辺が誕生しています。東京の水辺は、この150年の間に、建築や空間が動態的に変化しながら、いろいろな時代や機能の層が重なり、一定の価値をもちながらひとつの風景のなかに蓄積されているのです。それを理解できると、アジアや東京の風景はかなりおもしろく、再生のひとつの方向性も見えてくるような気がします。

〈水都学〉の意義とフィールドワーク

水都のイメージ、捉え方はさまざまあると思いますが、横断的な方法としての〈水都学〉、つまり陣内先生がよく指摘されるように「学問領域の垣根を越えて国際比較するための新しいアプローチ」として水都学の考え方はかなり有効であることもわかってきました。都市を解読し、新たな視点を見出し、時代を読んで、次へと更新するための横断的な研究方法としての水都学の確立を目指したのです。
ヨーロッパを専門にすることが多かった上の世代に対し、われわれの世代がアジアを対象とすること自体にも意味がありました。新世界創造の役割を担うアジアを研究の枠に組み込むことで、新しいパラダイムの転換ができるのではないかと期待をもったわけです。
また、最近の都市史研究者は都市だけを扱うことが多いようですが、陣内先生や私は建築と都市の間を行き来しながら全体像を捉えようとしています。

研究の手法としては、フィールドワークを常に心がけています。建物の実測と聞き取りを徹底し、統計や古文書だけに頼らない建築史・都市史を目指しています。それでも方法は対象によって柔軟に変え、たとえば北京の研究では多くの歴史的な史料が現存していたので、〈モルフォロジー〉、〈ティポロジア〉、〈コンテクスト〉という、まさに陣内先生が『イタリア都市再生の論理』(鹿島出版会/1978)で紹介したような研究を試みました。上海では一部の公文書が近年外国人にも公開されたので、土地所有や建築申請の図面まで手に入るようになって、ディテールまで入り込んで研究できるようになりました。これら史料の考察は行いますが、やはり調査研究の中心にはフィールドワークが常にありました。そうした史料が残されていないバリ島では、集落の寺や集会所、すべての住宅を実測調査しました。これによって集落と社会構造、地縁と血縁の関係、つまり集落全体のメカニズムが社会と空間をいかに支えているのかを見出すことができました。

多様なアジア

さて、ここからはアジアの水都について話を進めたいと思います。これだけいろいろなところを調査していると、陣内先生からは「アジアは多様であることがわかっただけなのか?」と常に言われ続けました。そこで、それらを比較するうえで重要なポイントだけに絞って、調査研究を行った年代順に紹介していきます。
まず、蘇州と周辺の水郷鎮は、江南地方の伝統的な川港型の水都です。近代に入って都市として成長した上海もまた同じ川港です。調査対象を蘇州から水郷鎮へ、そして上海へと広げると、内陸の伝統都市と海に近い近代都市とが川で密接に結ばれて、この地域全体に変化をもたらしていることに気づきます。つまり、有名な蘇州だけを調べるのではなく、そのまわりの水郷鎮という小さなまちとも比較し、次に上海との関わりのなかで考えることで、はじめて都市の構造や空間の特徴が見えてくるのです。
マカオは大陸と大海の間に位置する島上の海港型の水都です。16世紀中期、ポルトガル人がこの土地を租借すると、自国のデザインそのままに教会や邸宅をつくり、アジアには存在しなかった異国の風景を出現させました。そうすることで、政治と宗教、経済の支配と権力を可視化したのです。しかし、次第に中国人が海沿いに多く移住すると、島の上部に住むポルトガル人は海とのつながりを失います。そこで、区画整理によって目抜き通りを無理矢理通し、海への明快な軸線を生み出すことで、都市の実権を再び掌握します。アジアでは、植民地的な都市のあり方から、その地域の特性を読み込んでいくことも必要です。
次にヴェトナムのメコンデルタの河口に位置するチョロンとホーチミンです。チョロンは、アジアで最も歴史のある17世紀はじめのチャイナタウンです。その隣にフランス人が商業港としてホーチミンを建設するわけですが、この植民地都市はフランス人とヴェトナム人によるホーチミンという空間だけで完結していたのではなく、海域で結ばれる非ヴェトナムのアジア世界と、内陸に展開する先住民の世界からなる両方を広く領域とし、そのなかで人や物を交流させながら地域全体を成立させていると捉えることが不可欠だということがわかりました。
タイでは、チャオプラヤー川沿いの都市を上流から下流にかけて一体的に見ていきました。上流と下流では水位の変化が大きく、河口側の都市アンパワーなどでは1日で2~3mの潮位の差があるため高床式の住居をつくり、一方の上流では年間を通して10mも上下するので、家は筏の上に浮家としてつくられます。ひとつの国、ひとつの川沿いであっても、そうした環境の変化に応じて都市のつくられ方や住居の形式が大きく変わる実態を調査しました。対象の枠組みや歴史だけでなく、自然環境からの視点も重要であることを教えられました。
シンガポールは、いわゆる植民都市としてイメージしやすい海峡型の都市です。戦後、1980年代までのシンガポールは、生活水準を一気に高めると同時に街並みの美化を貫徹し、アジアのなかでいち早く近代化を成し遂げた優等生的存在でした。とりわけ、リー・クアンユー首相は川の完全浄化を宣言し、1977年から10年計画を実行していきましたが、水辺に展開する人々のアクティヴィティと、西欧人がアジアに求めるエキゾチックな魅力までをも失ったことに後になって気づきます。そこで1985年には一転して、川沿いに観光客を呼び戻すための伝統風の店舗兼住宅の再建と、プロムナードの整備を行います。ここ数年では近未来的なデザインのホテルが新たなランドマークとなったマリーナ湾の開発もよく知られていますが、西欧のような統一された美しさではなく、アジアのように無秩序な風景でもない、新しい都市の風景を生み出しています。
さて、一連の水都の調査研究にあって、大きな衝撃を受けたのがインドのガンジス河に寄り添う聖地・バラーナシです。アジアに多い川港型の水都で、「ガート」と呼ばれる水辺の階段が6.4kmにわたって連続する風景は圧巻です。ガートの上部には、インド各地の王宮と寺院が軒を連ねています。人々は早朝から階段を下りて沐浴しながら祈りを捧げ、別の場所では荼毘に付された遺体が河に流される。また、こうした水の聖地では水辺で行われる祝祭的な儀式も欠かせません。まさに、生と死が水辺の空間に一体となって共存する水都なのです。

水都の類型

こうした多様で多彩な水都を見ていくときに、その立地の類型を考えることは有効な手段です。これまで見てきたアジアでは、圧倒的に内陸部の川港型、いわゆる水郷都市が多くなっています。膨大な水や土砂を出し続ける大地が背後に控えているので、日本の本州がすっぽり入るような巨大な河口デルタに海港、都市をつくるにはかなりの技術が必要だったからです。しかし、それを近代の技術が可能にした結果、海港の都市ができてきます。そうすると、従来の内陸部の川港の都市とつながって、途中の小さな村やまちが一体となってネットワークを組織し、その地域全体が更新される。まさに、陣内先生が主張されるテリトーリオという考え方は、こうしたアジアの地域でも欠かせない概念となります。

しかしながら、アジアの都市は、破壊と再生を繰り返すという点で西洋とは決定的に異なります。アジア都市の破壊の歴史は、戦後の民衆意識の矯正をも企図して、老朽化・不衛生・危険という名目で旧市街地が排除され、より健康的で、より清潔に、そしてより効率的な都市と社会を追求してきた結果と言えます。その主なターゲットとなったのは都市の水辺でした。その結果、建築の質が悪く不揃いではあっても、活気に満ち、水が身体にきわめて近いアジア独特の水辺空間には、カミソリ堤防が立ち上がり、西欧によく見られるきれいなプロムナードが整備され、それに沿ってオフィスビルやマンションが建ち並ぶようになります。アジア都市の水辺空間は、宮殿や寺院のような象徴的な単一の建物が主役なのではなく、小さな住宅や店舗が密度高く集合するあり方そのものに魅力をもちます。中谷礼仁さんのいう「弱い技術」や、青井哲人さんの「やわらかい都市」といった発想の転換によって見直すと、アジアや日本の都市もおもしろく、評価できるのではないかと思うわけです。
そして、1980年代から、特に2000年に入ってからは本当の意味での歴史と文化に根ざした水辺空間の再生がさまざまなかたちで現れつつあります。その水辺の歴史や文化の蓄積、さらに都市全体との関係を読み解くなかで、水辺空間の意義を知り再生を図る時代が到来しているのです。

水の聖地論へ

2015年頃から、古代や中世が地域の形成にいかに影響を与えたかを重点的に研究しています。実は、東日本大震災直後から、そうした時代の地形や自然環境が聖地の成立と深く関わっているのではないかと考えて調査していたところでした。日本を含むアジアでは、特に津波の災害で、都市や集落のある特定の神社が被害に遭わなかったという研究が多くあります。そこで、そもそも都市や集落の領域は歴史的にどのように把握されていたのかを調べていくうちに、どこでも「水神」を祀る聖地がその領域の境界に置かれていることに気づいたのです。
中国の江南地方では、「水口すいこう」という語句がよく古文書に出てきます。市街地の周辺で、水が集まる、あるいは分岐する場所が非常に重要で、都市や集落の境界を示すように、その水口に宗教施設が置かれます。日本の都市も同様ですが、加えて日本では周囲の山や台地との境にある湧水地を「山口さんこう」と呼ぶこともわかってきました。そこで災害と都市領域、基層構造と聖地をつなげて調べてみようと思ったわけです。
これまでに、長崎県島原、広島、名古屋、大坂、沼津、小田原、水戸、江戸といった都市を調べてきました。これらの城下町では、都市の領域を示す境界にことごとく水神が祀られています。いずれも一般の民衆ではなく為政者が置いた水神です。

古代の聖地に依拠する大坂

淀川は上流の山崎で桂川と宇治川、木津川の三川が合流し、その山口とも言うべき場所に離宮八幡宮(859年)を鎮座させています。ここは大坂を流れる淀川の始点にあたり、同時に京都との境界にも位置する環境領域を示す水の聖地と考えています。
一方、城と城下が築かれた上町台地では、まず三の丸の境界に玉造稲荷神社(伝 紀元前12年)、城外に出て南下した台地西端に、大坂の総鎮守とされた生國魂神社が、さらに城下町の南端には四天王寺(伝 593年)が鎮座します。秀吉の城下町計画は、古代・中世からの地形や地質などの自然条件に依拠しながら、それと結びつく水の聖地といった文化の基層をその上に形成し、それらを都市領域として可視化しながら地域のコンテクストのベースをつくりだしているのです。
上町台地の城下町整備に続いて、秀吉は城の西に広がる低湿地の開発に着手します。その際にも、開発地の西端に御霊神社、南端に坐摩神社を置きました。両社ともに歴史は古く、もともとは海側の別の場所に創建されたものを秀吉が現在の陸側の場所に移しました。つまり、古くから伝わる水の神の力を借りて、新たに生成される都市領域の境界に水の聖地として遷座したと考えられるのです。

山の辺と水の辺の聖地がつくる江戸

江戸に目を移します。まず、水が湧き出るところでは、井の頭池、新宿の熊野神社に弁才天が祀られ、関口大洗堰の上流側には水神社が鎮座しています。
下流の江戸湊や隅田川と合流する場所には、いずれも江戸築城で有名な太田道灌に由来する日本橋の常盤稲荷神社と神田の柳森神社があり、両社とも水神を祀ります。現在では埋め立てによってかなり内陸に位置しますが、江戸開府のいまだ日比谷入江があった時代には、まさに江戸湊への出口にあたりました。
対して、東の隅田川では低地の環境的な自然の秩序に依拠して水の聖地が立地します。いずれも創建年代は不詳ですが、現在の北区岩淵水門の脇には岩淵八雲神社と志茂熊野神社が隣接して置かれ、両者とも水の神を祀る市杵島神社と水神社が境内に合祀されています。この場所は、江戸時代の瀬替え後の荒川と新河岸川の合流点、つまり江戸に水が流れ込む入口のまさに水口の位置にあたります。その下流には隅田川神社(伝 12世紀)があり、またそのすぐ北のかつての渡しがあった場所には、蛇体に女性の頭を付けた水神を祀る木母寺(10世紀)があります。
一方、隅田川以東の低地開発は、大坂の船場の状況に似て興味深いものです。南端の富岡八幡宮と横十間川の北端に位置する亀戸天神社も、開発とともに遷座し、水の神を祀る神社を合祀しています。つまり、その土地に古くからあった神の力を借りて、都市領域の境界に移動し水の聖地と一体化させた大坂の例と同じなのです。

新たな〈水都学〉に向けて

こうして、新たな学問体系としての〈水都学〉を考えていきたいと思っています。そのために、具体的な方法や事例を調査研究していくことがまずは求められます。
『水都学Ⅰ 水都ヴェネツィアの再考察』(法政大学出版局/2013)で、陣内先生が「水の都市の特質とそこに潜む魅力を、歴史とエコロジーの視点から探り出し、近代に忘れられ失われかけた価値を復権・再生させるための新たな学問体系〈水都学〉」と明言しているように、その成果を現代の社会にいかに生かしていくかが重要です。2017年度には、法政大学に「江戸東京研究センター」が設立されました。その初代所長に陣内先生が着任されました。
素晴らしい研究者であると同時に素晴らしい教育者でもある陣内先生の教えに、「一点突破、全面展開!」というのがあります。学生時代からよく聞かされていました。これは、何かひとつ自分の世界をはっきりと見つけて、そこである程度ものさしをつかんだら、あとは全面展開するべきだ、というものです。
中谷礼仁さんの回では、講義後の対談で「早稲田は東大じゃない、東大に反抗するために早稲田には民衆的なものがある」と言われていましたが、法政はこの「一点突破、全面展開」に突破口があるのではないか。そう言われてみると、確かに私も当時は誰も見向きもしなかった中国の、それも江南の一地域に見慣れない水のまちがあって、おもしろそうだからという単純な気持ちで留学し、研究を始めたことを思い出します。「無頼の研究者であれ、そして熱心な教育者であれ」という教えを宝のように生涯にわたって大事にしていきたいと思います。
(2017年12月5日の講演より)


高村雅彦[たかむら・まさひこ]
1964年生まれ。法政大学デザイン工学部建築学科教授、江戸東京研究センター・プロジェクトリーダー。2013年、上海同済大学客員教授。前田工学賞、建築史学会賞受賞。主な編著書に、『中国の都市空間を読む』山川出版社、『中国江南の都市とくらし――水のまちの環境形成』山川出版社、『タイの水辺都市――天使の都を中心に』法政大学出版局、『水都学Ⅰ~Ⅴ』法政大学出版局。