法政大学建築フォーラム2017「建築史の可能性への挑戦」講演録|第3回


第3回「世界から見た江戸東京のユニークさ」
田中優子(江戸文化研究者、エッセイスト)

水の都市、江戸

今日は「江戸」について、都市だけでなく文化的な特徴も含めてお話ししたいと思います。
まずは都市の特徴です。江戸は日本の統治システムの中心であったわけですが、他の世界の中心都市と比較すると城壁がないことが特徴です。多くの人は陸路(街道)から入り、米や酒などの物資は水路(川や海)から船で出入りしていました。海から来て川を上ったり、山の奥地から川で運ばれてきたり、江戸には川や運河が縦横に走っており、人も物資も流動性が高い都市でした。江戸時代は人口の約80%が農民で定住率が高かったのですが、都市だけは流動性をもっていました。江戸時代の中頃には人口が100万人を超えており、世界の都市のなかで最も人口が多い都市でしたが、その人口のほとんどは流動人口でした。
城壁がなくどこまでが江戸なのか、物理的には決まってないようなものだったので、都市の内と外が分かれることなく、都市のなかにもどんどん自然が入り込み田園や庭園がつくられました。現在の山手線の内側、たとえば広尾周辺は田園地帯でした。また、藩の屋敷がたくさん建てられていましたが、それぞれの敷地の多くを占めるのは庭園でした。江戸は水や田園や庭園などの自然が基調となった都市だったのです。川や運河などの水路や河岸は流通の柱でした。商家の裏側は運河になっていて、そこに河岸がつくられて、荷物はそのまま船から蔵に入れられるようになっていました。そのように水路が都市に張り巡らされていました。

そもそも、1457年頃の江戸の地図を見てみると、神田川は大きな湖のような、隅田川は海のような状態で、そこに島々が浮いて江戸ができていたことがわかります。たとえば「鳥越村」と呼ばれた浅草も島のひとつでした。この状態から都市をつくるためには、いろいろなところを埋め立てなければなりません。
その後江戸時代の前には、江戸にだいぶ陸地が増えます。日比谷入江に小高い場所があって江戸城がつくられました。物資が運び込むためには、水辺になければ不便なわけです。今の江戸城は内陸にあるような気がしますが、もともとはこうした構造をもっていました。

日本橋――陸路と水路の出発・到着点

水の江戸がどのような町だったのか、浮世絵を見るとよくわかります。歌川広重の『名所江戸百景』は明治維新の少し前、幕末に描かれました。つまり私たちから見るといちばん近い江戸の姿で、広重から見ると失われつつある江戸の姿ということです。ここから、当時の江戸の人たちの、江戸の見方がわかります。『名所江戸百景』は、数えたところ118番まであるのですが、約80パーセントに、運河や川、湖、溜め池、海などさまざまな水が描かれています。これは実際に江戸が水の都だったことを示しています。
この第1景「日本橋雪晴 初春」に描かれた日本橋は、陸路と水路の出発点であり終着点でした。さらに魚市場や青物市場もあり、裏に河岸ができていて直接蔵に運び込めるようになっているため、川沿いには蔵が並んでいました。同じく広重の『東海道五十三次』には、早朝に魚市場に仕入れに出かけていく魚屋や旅立つ町人、参勤交代の武士の姿など、日本橋を行き交う人々の情景が描かれ、水路と陸路両方の出発点であったことがはっきりと見て取れます。
一方、現代の朝の日本橋は、江戸の賑わいに比べると閑散としています。1964年の東京オリンピック以降、高速道路で空が覆われているために水面が暗く、日本橋から下を見ても水があるという感じがしないんですね。

隅田川と両国橋、さまざまな水辺

隅田川や両国橋も水辺として特別な場所でした。両国は夏に川開きが行われると3カ月間は花火の季節を迎えますが、その時期は夜の営業が許可され、たくさんの観光客がやってきます。船もエンターテインメント用の屋形船や、食べ物を売る船がたくさん出ます。川岸には店や劇場がたくさんつくられました。広重の「両国橋大川ばた 夏」や葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』など、隅田川は数々の浮世絵に描かれました。

広重『名所江戸百景』のなかで、小網町を描いた浮世絵「鎧の渡し小網町」は非常に珍しく、橋ではなく渡しで船が動いているところが描かれています。そして白壁の倉庫が並んでいて、ここからさまざまな物資を運んでいました。典型的な運河で、川ではなく開削した運河なのです。
また、「せき口上水端はせを庵椿やま」は水辺の風景です。せき口(関口、堰口)というのは、堰き止めて水道にするための口で、現在の椿山荘のある目白の近くです。このあたりには関口芭蕉庵があり、今でも残っています。当時、松尾芭蕉は町役人の秘書で水道の管理をしていたため、ここに庵があったのです。江戸の町の下には飲み水のための人工的な水道が張り巡らされていて、その取水口のひとつがせき口でした。
水道と言えば水道橋ですが、江戸時代には実際に目に見える水道の橋が架かっていました。今は水道の橋はなくなり、普通の橋(聖橋)になっています。

京都の「やつし」

江戸は京都の「やつし」と言われ、京都に見立てられていることも、江戸の都市のつくられ方の大きな特徴です。たとえば琵琶湖を不忍池に、比叡山を東叡山(上野・寛永寺)に見立てていました。また江戸にはミニチュアがあることも特徴です。「富士塚」は富士山に見立てて人工的につくられた山です。富士山を眺めながら富士塚に登山すると、富士山に登山した気分になる。こうしたレジャー的な富士信仰がありました。実際に880の富士塚があったと言われています。
同じく『江戸名所百景』の「市ヶ谷八幡」には、外濠の内側から外側を眺めている風景が描かれています。外濠の内側は今の法政大学が建っている側で、武家地です。外濠の外側は町人地でした。市谷には市谷亀岡八幡宮があり、八幡の門前町としてたいへん賑わったところなのです。
 外濠の内側には藩邸がたくさんあり、内側に広大な庭園をもっていました。江戸近郊に出ると、自然に満ちた風景のなかに茶屋が建っていました。ここまで話してきたことが、都市の情景です。

循環100%の江戸

100万都市江戸のもうひとつの大きな特徴として、循環の仕組みがあります。人口が多いとゴミと排泄物が問題になりますが、世界でいちばん人口が多かった江戸ではほとんどその問題は起こりませんでした。
長屋は必ず、水道、「後架」と呼ばれる共同トイレ、それとゴミ箱の3つがセットでした。排泄物は畑に運ばれて土の下で微生物に分解され、ゴミは郊外の埋め立てに使われました。排泄物や廃棄物を燃やした灰は水路で郊外に運ばれ、農村で土に還され、また植物になって都市に戻ってくる。循環が100%達成されていた状況です。ですから不潔な状態にならないし、なれないのです。
また、布、紙、竹、木材などの生活必需品は基本的に農村で生産されます。衣や書籍、諸道具は極限まで使い回されます。たとえば着物は、さまざまに流れて古着として流通します。着物として使えない場合は分解して縫い合わせ、別のものにつくり変えることができました。さらに使い回された布は燃やされ、灰になって土に還ります。灰は養分になりますし、洗剤としても使われました。
このように、江戸は生活品を使い回すための古着屋、古道具屋、古本屋、各種修理店が非常に発達していました。新しい商品が出ないと経済が回らないのではないかと、私たちは心配しますが、そんなことはないのです。修理屋をはじめ古いものを直すことで経済が動いている都市だったのです。

連とネットワーク――社会のなかの小社会、都市のなかの都市

江戸文化をつくり上げた構造についてお話しします。
「社会の裏」とも言ってもよいかもしれませんが、表向きの社会とは別の小社会が無数にありました。私は『江戸の想像力』(筑摩書房/1986)のなかでこれを「連とネットワーク」と呼んでいます。社会学者の池上英子さんは、同じ現象を「パブリック圏の性格をもった隠れ家」という言い方をしています。社会のなかに小社会が幾重にもつくられていて、そこで「狂名」(アバター)という、自分とは別人格の名前を複数もちます。そうした狂名によって文化芸術や技術を創造する人がたくさんいて、この構造が江戸文化をつくり上げていました。
1700年代の後半から、江戸っ子と呼ばれる人が現れたと言われています。江戸っ子の特徴は「連」や「会」「社」などの小社会を形成し、創造活動をしていたことです。その創造活動は芝居町の形成にも力を発揮し、また遊郭を支える人たちでもありました。
芝居町と遊郭はファッション界を支えています。そして全体として出版界を支えています。当時の出版には本だけではなく浮世絵が含まれています。たとえば連のひとつは、錦絵と呼ばれるカラー浮世絵の印刷技術を完成させて商品化しました。
それから狂名で活躍する狂歌連に属する人々が、黄表紙やパロディ本をどんどんつくりました。そして漢詩をつくる詩社は、狂詩というものをつくっており、武士たちが参加していました。これらが少しずつ社会とつながっています。ファッション界が新しいものをつくると、芝居町や遊郭の人がお客さんになっていきました。
狂名は、まさにアバターです。たとえば、「もとの木阿弥」というアバターはお風呂屋さん、「尻焼猿人」は姫路藩主の弟である酒井抱一、「酒上不埒」は駿河藩の藩士、倉橋格が使っていたものです。このように武士であろうと町人であろうとこのアバターをつくって文化活動をしていたのです。

都市のなかの都市――対構造

こうした、江戸文化をつくり上げる構造にはまた、「顕れる」と「隠れる」の対構造があります。都市のなかの都市が「悪所」として隠れているのです。具体的には遊郭や芝居町のことです。実際に隠れるような構造で、あえて表の道から見えないようにつくられていますが、あることは皆知っている。見えないのにある、顕れることと隠れることが微妙に対構造になっています。
これは人間の世界にも言えることで、たとえば「隠居」という言葉があります。「隠れて居る」ということですが、これは表社会を退いた人のことを言います。じつは隠居になってから活躍する人がとてもたくさんいて、歌川広重は20代で隠居して、そのあと浮世絵師となります。井原西鶴も隠居してから小説を書いていますし、松尾芭蕉は隠居してから活動を始めています。伊能忠敬も隠居してから地図をつくっています。つまり隠居は、文化的な活動の始まりであると言えます。隠れた人たちが文化をつくっている。つまり社会のなかに裏の小社会があったと言えます。
このように、都市の構造、目に見える都市の様相から江戸文化を築いた裏の社会まで、江戸の特徴をご案内しました。江戸に関心を寄せることで、これからの日本の都市を、考えるきっかけにしていただけたら幸いです。
(2017年10月24日の講演より)


田中優子[たなか・ゆうこ]
1952年神奈川県横浜市生まれ。1980年法政大学大学院博士課程(日本文学専攻)修了。法政大学社会学部教授。2014年4月から法政大学総長。著書に、『江戸の想像力』筑摩書房、芸術選奨文部大臣新人賞受賞、『江戸百夢』朝日新聞社、芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞、その他多数。2005年紫綬褒章受章。