法政大学建築フォーラム2017「建築史の可能性への挑戦」講演録|第7回-2


第7回「都市・地域とアート」
藪前知子(東京都現代美術館学芸員)
服部充代(インテリア・デザイナー)

後編:ニューヨークのウォーターフロントにみる都市・地域とアート 服部充代

私は1991年から約11年間、ニューヨークで仕事をしていましたが、当時、とても気に入っていた場所がウォーターフロントです。そこに行けば気持ちのよい水辺があり、ニューヨークという場所柄、アート・イベントやミュージシャンによるライブが行われていて、わざわざ美術館やシアターに出かけなくても、のんびり楽しい時間を過ごすことができました。
2002年に日本に戻り、水辺を見て愕然としました。これはまずいと、地元の閉ざされた運河を舞台にアート・イベントを開催する市民活動を始めました。陣内先生とのご縁も、その活動がきっかけでした。
ニューヨークは、かつては港湾の一部として栄えた場所でした。1800年代半ばからアメリカ最大の港湾都市となりましたが、1910〜20年頃から衰退が始まり、50、60年代になると荒廃は深刻化、普通の人は近寄らないような水辺に成り果てます。その水辺が今では、生き生きと蘇っています。その要因として、私は街にあるアートとコミュニティの関係が鍵を握ると考えています。今日は、ニューヨークの地域とアート、とくにウォーターフロントの再生に関わる事例をいくつか紹介したいと思います。

動き出したウォーターフロント再生の背景――プランNYC

ウォーターフロントの再生が始まった背景には、2007年にニューヨーク市が出した「PlaNYC」という都市計画があります。これは2030年のニューヨークがどうあるべきかを広く市民や専門家に問いかけ、まとめられたものです。
それが「A Greener, Greater NY」、環境に優しく持続可能な都市、強くて魅力的な都市にしたいというヴィジョンだったのです。ニューヨークはさまざまな都市問題に直面しています。急激な人口増加による住宅不足、パンク状態の交通インフラの改善、地球温暖化への対応も必要でした。そして、このヴィジョンを実現するための「10のゴール」が設定されたのですが、そのうち、半分以上がウォーターフロントと関係するものでした。たとえば、住宅を増やすにも、公園をつくるにもウォーターフロントの空地が候補になる。新たな交通システムとしての水上交通もそうですが、このヴィジョンを見ると、誰の目にもウォーターフロント再生が急務であることがわかりました。これを受けて、急ピッチで再生が始まったのでした。
さて、ここからが本題です。かつて港湾の一部であった地域とアートに目を向けると、アートの働きにおいて、大きく役割が変化した時期があります。今日はその変化に着目し、1950年代から90年代までの、アートが変化のきっかけとなった時期をフェーズⅠ、そしてそれ以降、PlaNYCが後押しとなりウォーターフロントの再生が大きく動き始めるなかで、アートが地域の魅力づくりの一端を担うようになる時期をフェーズⅡとします。

フェーズⅠ:荒廃からの再生・アートが変化の原動力

隣接する港湾の物流を支えるかたちで倉庫街となったSOHOは、1950年代には「地獄」と言われるほど荒廃していましたが、その頃から、いち早くアーティストたちが住みつきます。アーティスト・コミュニティが生まれ夜な夜な集会を始めると、エッジの効いたギャラリーがスペースを構えるようになります。そこから、若者が集まり、メディアが取り上げ、エリアの人気がますます高まっていったという、皆さんご存知のストーリーです。
しかし地価が高騰し、ジェントリフィケーションが起こると、ギャラリーは別の場所に移っていきました。アートウォッシュです。再生はしたけれども、ジェントリフィケーションの負の側面としてものちに注目されるようにもなります。今では、ルイ・ヴィトン、シャネル、プラダのある街になっています。
チェルシーでも、崩れかけたピア(桟橋)や廃墟となった倉庫、工場跡は、アーティストにとって絶好の実験の場となりました。60、70年代は、こちらにも多くのアーティストが集まるようになります。しかし、SOHOのようにすぐに大きな変化につながることはありませんでした。地域の変化が本格的になったのは、90年代に、すっかりエッジを失ったSOHOから多くのギャラリーがチェルシーへの移転を始めた頃からでした。2000年には、ギャラリーの数でSOHOを抜きます。今では、多くのビルがギャラリー・コンプレックスとなり、全体で340軒あまりのギャラリーが集積する、世界的にも珍しいほどのギャラリー街となっています。
その後、ここで再生された高架橋のプロジェクトが、皆さんよくご存知の「ハイライン」(2009年)です。ハドソン川に沿って走っていた、かつての貨物鉄道高架橋をパブリック・スペースに再生したもので、今ではたくさんの観光客を集め、周辺には世界的な建築家による建物が並び、多くの世界企業が拠点を置くエリアとなっています。
このようにチェルシーも、SOHOとはストーリーの違いはありますが、その変化のきっかけにはアートがありました。しかしおもしろいことに、ここでは変化とともにアート・ギャラリーが他へ移転して姿を消すのではなく、ハイラインの再生後もそこに留まり、さらに数を増やしています。

フェーズⅡ:地域の魅力づくりの一端をアートが担う

しかし、その再生のメカニズムに変化が現れます。ここからは、その後のフェーズⅡにあたる2000年以降の話です。アートが再生の原動力というだけではなく、地域の魅力づくりの一端を、さまざまなかたちで担っていくケースが増えていきます。それが結果的に、多様性に富む新たな地域づくりにも寄与することになります。数えきれないほどの事例から、今日は3つをご紹介します。

アートが地域コミュニティをつなぐ――
「ハイライン・アート」とホイットニー美術館の「コミュニティ・アート・プロジェクト」

ひとつ目は、ウエスト・チェルシーとその南側に位置するミートパッキング・ディストリクトの事例です。ハイラインがオープンし、それを受けて2015年には、その南端にレンゾ・ピアノ設計の新ホイットニー美術館がアッパー・ウエストから移転してきました。
2009年にハイラインが最初のセクションをオープンした際に同時に始まったプログラム「ハイライン・アート」は、ハイラインの建築の特性や、歴史、デザインと連動し、周囲地域の文化や歴史、そしてランドスケープと呼応するようなアート作品をキュレーターが選んで、シーズンごとに展示が行われています。アーティストの気づきから生まれたアート作品が、その場に隠された時の流れや地域性を浮き彫りにする点で、東京都現代美術館のMOTサテライトとよく似ていると思います。この試みが始まったことによって、この地域の住人がアートと連動して歴史保存の街歩きを始めたり、周辺のギャラリーを含め、さまざまなイベントが年間3,000件以上企画されるようになったそうです。
また、ホイットニー美術館でも、移転に先駆けた2010年から、いろいろな地域コミュニティとパートナーシップを結び、地域との結びつきを構築し始めました。2015年の移転後も、教育部門が中心となり、作家と地元の参加者が協働をはじめ、地域のコミュニティや文化に密接に関わるアートを積極的に展開しています。

アートが持続可能な地域づくりの一端を担う――
ダンボとウィリアムズバーグにおける地元ディベロッパーによるフィランソロピー

ふたつ目は、ブルックリンの水辺のエリアDUMBO(マンハッタン橋高架道路下の意)とウィリアムズバーグの事例です。工場や物流の拠点として栄えた場所ですが、ここも1960年代には衰退がピークとなりました。70年代にはアーティストが移り住むようになるのですが、この後の展開が少し違います。ここがおもしろいと考えた地元の不動産ディベロッパーが、70年代に主要な工場跡地と倉庫を破格の値段で取得し、2000年を前後して再開発が動き始めた頃には元を取ることができました。そこで、このディベロッパーは、コミュニティと密接に関わりながら、アートを通してこの地域をよい街にする活動に取り組み始めています。それが「コミュニティ・コラボレーション」、アートによる「フィランソロピー」です。
具体的には、この地域で長く活動を続けてきたアーティストの流出を避けるために、開発後も優先的にスペースを提供すること、空きスペースがあれば地域にとって有益なアート・ギャラリーやアーティストに無償、あるいは低家賃で貸すことなどです。そしてその代わりに、アーティストやギャラリーにはコミュニティに貢献し、アート・プロジェクトで学校とも連携をします。
そしてもうひとつ、同じディベロッパーによるウィリアムズバーグでの動きもあります。地元の創業150年の製糖工場、ドミノ・シュガーは、2004年に閉鎖され、それ以来放置されたままでした。それを2011年にこのディベロッパーが買い受け、イーストリバー沿いに広がる6エーカーのドミノ・パークと、入り組んで隣接する住宅棟や教育施設を併設した商業ビルへの再開発が始まりました。
ランドマークである製糖工場ビルを中心に工場跡の建築物を積極的に残す計画で、ランドスケープを手がけるのはハイラインを手がけたジェームズ・コーナー・フィールドです。また、製糖工場の改修前には、地元アーティストによる30トンもの砂糖を使った作品の制作・展示も行われ、新たな変化を前に、歴史や記憶もアート作品として残していく試みが高い評価を受けました。

アーティストが地域を守り、歴史を守る――
スタテン・アイランドのフューチャー・カルチャー

最後に紹介するのが、マンハッタンの南側にあるスタテン・アイランドの「Future Culture」です。DUMBOのように、誰かがアーティストによるコミュニティへの貢献を期待してアートを支援するのではなく、アーティストたちが自発的に自分たちの文化を守りながら、水辺と向き合って将来を決めていくというプロジェクトです。
NPOデザイン・トラスト・フォー・パブリック・スペースと、地元のアート協議会であるスタテン・アイランド・アーツのふたつの団体が連携しながら進めています。デザイン・トラストは公共空間が再生される際に、地元の意向や意識が反映されるよう、行政と住民の間を取りもちながら地域をプロデュースする団体です。スタテン・アイランド・アーツは1960年代から存在していて、地元のアーティストの活動を見える化し、必要な資金やネットワークを提供し支援する団体です。
作成された地元の文化の未来を描いた報告書のなかには、ここで活動するアーティストや地域に存在するアートを見える化したマップや、港湾の頃の遺構のマップが作成され、今後それをどう保護し、活用していくかのヴィジョンも含まれています。

多様性に富む新たな地域づくり――アートにできることとは

多様性に富む地域づくりのために、アートにできることはいったい何なのか。この命題はあまりにも大きいので私には答えることができませんが、これからアートとさまざまな分野がコラボレーションするなかで、これまでとは違ったムーブメントが起こることを期待しています。
これからのアートは、アート作品というかたちに留まらず、さまざまな事象の合間に入り込み、媒体となり、より社会と連動した行為を担うようになることが予測されます。それも、積極的にコミュニティと関わりながらです。そしてそれが都市全体を動かすことになるのかもしれません。ニューヨークを見ているとそのように感じます。東京でも、これからオリンピックを機に水辺が大きく変化するのだと思いますが、ぜひ都市計画や建築に携わる皆さんとアートの分野がエンゲイジして、新しい視点から魅力的なウォーターフロントの地域づくりを進めていただきたいと願っています。
(2017年11月28日の講演より)


服部充代[はっとり・みつよ]
インテリア・デザイナー/like air + water co., ltd. 代表。1991年から11年間ニューヨークに在住。Clodagh Design International にてデザイナーとして働くかたわら、ニューヨークのウォーターフロントに魅せられ、都市のなかの水辺のあり方、水辺とクリエイティヴィティの関わりに強く関心をもつ。2002年に帰国後は、名古屋の中川運河再生のムーブメントに力を注ぐ。一般社団法人中川運河キャナルアート、初代理事長。ミズベリング諮問委員。著書に『水都学 V』(共著)法政大学出版局ほか。主な報告書に『「米国北東部の水都」調査報告書 法政大学デザイン工学部建築学科・陣内研究室編』(共著)法政大学エコ地域デザイン研究所。