法政大学建築フォーラム2017「建築史の可能性への挑戦」講演録|第2回-1


第2回「日伊比較から見て 都市史に何が可能か」
野口昌夫(建築史家/イタリア建築史・都市史)
伊藤 毅(建築史家/日本建築史、都市史)

前編:実学としての都市形成史 野口昌夫

1981〜85年の4年間、私は設計事務所で働きながらフィレンツェ大学の都市地域研究科で都市形成史の勉強をしました。都市形成史はその名の通りフィジカルな側面に着目した都市史です。指導教授はエドアルド・デッティ。陣内先生はヴェネツィア建築大学でエグレ・レナータ・トリンカナートに師事しました。ふたりは年齢が3つしか違わない同時代のイタリア都市研究者です。1960年代のイタリア都市は危機の時代でした。日本と同じく戦争に敗れ、その後どのように都市を考えるか、経済を優先させるのか、保存を大事にするのか、そういったさまざまな論争がありました。
デッティは60年代に法的拘束力をもつフィレンツェ都市基本計画(PRG)を策定した人です。この計画の実施によって開発と破壊を免れ、フィレンツェは救われたと言われています。さらに1970年、彼は『失われたフィレンツェ』(原題 Firenze Scomparsa)という本を出版し、5カ国語に訳されました。そのなかで彼は、「フィレンツェが500年以上経っても最高のルネサンス都市で、まったく近代化の影響を受けていない」という認識に対して、実はそうではないということを指摘しました。フィレンツェ中心部のメルカート・ヴェッキオ広場(古代ローマ時代のフォロがあった最古の都市部)とその周辺部は近代に完璧に破壊され、再開発されたことを実測図面とともに示し、世界中にその事実を伝えたのです。

小都市の危機

その2年前、彼は、フィレンツェを中心とするトスカーナ州の小さな地方都市が近代化によって失われていくことにも大きな危機感をもち、フィレンツェ大学と各自治体の協力を得て『城壁都市と現代の発展――42のトスカーナ小都市』(原題 Città murate e sviluppo contemporaneo : 42 Centri della Toscana)という衝撃的な本を出版しました。小さな都市は美しい、素晴らしいという教養の書ではなく、それが現在どのような危機に瀕しているかに言及した本です。
彼はもともとカルロ・スカルパとウフィツィ美術館のレスタウロ(修復)をやった非常に優秀な建築家でした。それも私が先生を尊敬した理由です。それとともにフィレンツェの都市基本計画の策定という都市計画のトップにいた。そして小都市の変化に対して非常に危機感をもち、都市史の文脈を研究していました。また、60年代に喫緊の課題だった保存的都市計画の理念を、学生たちに教えた教授であり、いまだにフィレンツェ市民から歴史的な文化人として尊敬されています。

トスカーナ州の小都市研究へ

留学した当初はイタリア語もわからず、どうしてよいかわからないまま、先ほど紹介した2冊の本を読んで何を研究すればよいか1年以上かけて考えていました。2年後に一時帰国したときに、はじめて陣内先生に会いに行きました。陣内先生は「私はヴェネツィアを研究したけど、いくらでもテーマがあっておもしろかった。野口さんはフィレンツェをやりなさい」と言われました。奥が深くてやりがいもあるし、テーマもたくさんあると。しかし、私はそれに反してトスカーナの小都市研究の方向に進んでしまいました。
留学して3年目、突然チャンスが訪れました。トスカーナの小都市ペッチョリの都市修復計画を市当局から委託されたデッティ先生から「やってみるか?」と言われて、「やります」と即答しました。これならオリジナルな研究になると思ったんですね。そして先生の指示でペッチョリの実測が始まりました。都市の起源以来1500年以上の間、実測した人が誰もいない。しかし図面がないと修復計画ができない……どのイタリアの都市もそうでした。フィレンツェ大学の学生4人と一緒に2年がかりの実測が始まりました。リーダーの私は学生たちを時には励まし、時にはなだめつつ、昼間は実測作業ですっかり日焼けし、夕方は事務所に戻って図面を起こす毎日でした。

街区の形成過程分析を博士論文に

4年後に日本に帰国し、東京藝術大学への就任が突然決まり、その後6年かけてやっと博士論文を書き終えました。すでに41歳になっていました。ペッチョリ市の歴史中心地区のうち、ふたつの街区の形成過程を、分析の方法論を提示することに重点を置いて研究しました。この博士論文の公聴会は母校の東京工業大学でありましたが、陣内先生が来てくださって非常に心強く思いました。今でも感謝しています。
私の博士論文「ペッチョリ市歴史中心地区における街区形成過程の研究」について簡単に説明したいと思います。ペッチョリの中心部が最古のカステラッチャ街区です。はじめて調査に訪れたとき、ひとつの塊に固まってしまっている街区に圧倒され、どうやって分析するのかと不安でいっぱいでした。しかも中心部は丘のように高くなっていて、建物の奥はそれぞれ横穴を掘って床面積を拡張していて、少しヴァナキュラーな要素もあるような街区でした。
この時突然、エドムント・フッサールの現象学という分析方法が頭をよぎり、この方法が実際の対象にどれだけ有効なのかを自分で検証しようという思いが強くなりました。そこでまず、軒高の変化やファサードの色、仕上げなどといった外部、壁の厚さなどの内部、地籍境界から有効な10の指標を設定して単位に分節化しました。このとき、どうしても分節化できないものがありました。それぞれ屋根が1枚で覆われていても、平面図を実測して調べてみるとどうしても1棟の単位ではないのです。調べていくと、スキエラ型住宅(間口が4〜5メートルの最小構造単位でできた類型)とリネア型住宅(隣接する複数のスキエラ型が合体した類型)だけでは分析できないことがわかりました。そこで「合体型住宅」(リネア型とリネア型、リネア型とスキエラ型が合体した類型)というものを新たに定義しました。
次に、ひとつの塊になった街区を人々がどのように所有しているのかが知りたくなりました。それは「カタスト」という課税用不動産登記台帳の登記表示リストと地籍図から読み解くことができます。そこから街区の実測図面に所有形態を落とし込んでみると、日本の伝統的建造物群のようにひとつひとつの建物ごとに所有者がいるのではなく、複数のファミリーが階も関係なく所有していることがわかりました。しかも、お金があるときに隣の一部を買って壁に開口を空けて自分の家にするなど、時代とともに所有が変化することがわかったのです。すべてが一塊になっているということは、そういうことだったのです。
これは大発見だ!と思ったら、イタリアはどこでもそうだということを、ヴェネツィア建築大学教授のジョルジョ・ジャニギアン先生が出版されたDietro i palazzi という本を本人からいただき、知りました。カニッジャの理論では建物単位の進化は4つの段階を経るのですが、私が定義した合体型への進化がその後に起きた場合は5段階になります。この理論をカステラッチャ街区の3つの合体型に当てはめると、ひとつの建物が小さな単位として形成され、それが何度も合体してひとつの屋根で覆われていく過程が明らかになりました。

テリトーリオの視座からトスカーナを見る

博士論文執筆のためにひとつの都市を分析的に研究してきましたが、その後は現在に至るまで、もう少しマクロに、トスカーナ全体を地域(テリトーリオ)の視座から把握し、歴史的小都市と地域の形成を同時に明らかにする方法論を考えています。まず地形的要因が非常に大きいということがわかりました。それから経済的要因、政治的要因、宗教的要因があります。これらの要因から、自分なりにトスカーナを16のテリトーリオに分けました。
それから地質も関係します。たとえば、陣内研究室が調査していた「クレーテ・ヴァルドルチャ(オルチャ渓谷、2004年世界遺産に登録)」のテリトーリオは粘土質の大地クレーテが地域の特質を決定しています。このようにさまざまな因子からなる、すべてが異なるテリトーリオがつくられています。これまで約100の小都市の実地調査を終えましたが、16の各テリトーリオ自体を詳しく分析する研究はその途上にあります。

実学としての都市史を目指して

今日の講義のテーマは陣内先生が提起された「都市史に何が可能か」というタイトルなのでそれについて最後につけ加えます。結論から言うと、都市形成史は現実に対して役に立たなければならないということです。
フィレンツェ大学留学中、設計事務所での実務も4年間経験しました。その間、職能を観察してまとめました。歴史の分析者である都市史学者と地域史学者、現状の分析者である都市学者、建築家、地域学者という職能がひとつに結びついて、「都市認識」が形成されます。建築家が都市設計や都市計画をするときには、この知恵の集積である「都市認識」を基盤にして実践していかなければならない。日本の場合は都市史という研究分野は都市計画と乖離していますが、イタリアでは緊密につながっています。プロジェクトの中枢には「都市認識」があり、これが新たにつくるものの出発点になっているのです。
研究についてもまとめました。都市組織については、60年代以降ムラトーリとカニッジャが建築類型学を確立させていきました。一方で、アイモニーノ、デ・カルロは、モルフォロジア、つまり都市形態学ということを主張しました。しかし、都市組織と都市形態の両方が大事であり、互いに反発し合うことなく共生することが求められます。イタリアでは今でもこの考え方が定着しています。一方、地域組織は比較的新しい概念で、80年代後半から風景との関係から理論化されつつあります。
ここで強調したいのは、イタリアの研究分野には役に立つために生まれてきた歴史があるということです。それは、教養としてではなく、これを研究しないと自分の故郷や都市の生活が危うくなるという切迫した状況の現実的な認識から生まれてきています。
その最初の例が都市形成史です。50年代、大都市の都市基本計画(PRG)策定のために、はじめて実測による連続平面図が作成され、それを研究するために都市形成史が生まれました。その後80年、トスカーナ州法59号の制定により、トスカーナ小都市修復計画のための実測図が作成され、それを研究するための小都市研究という新しい分野が生まれます。私の博士論文が成立したのも、ようやく小都市にまで手が回ってきたからでした。
さらに80年代後半、歴史的風景の保存と歴史的地域の活用が再評価され、そのためのテリトーリオ研究が人文地理学者とともに開始されました。これは、世界遺産選定もきっかけとなって、テリトーリオ自体の保全が経済効果を伴う地域再生であることが見直されてきたからです。
以上のように、50年代に始まったイタリア都市形成史は社会科学的な実学であり、イタリアの国土形成と文化形成に直接関わる分野として認識され、大学で教え続けられ、社会に貢献していることをお伝えし、結びの言葉とさせていただきます。
(2017年の10月17日の講演より)


野口昌夫[のぐち・まさお]
1954年東京生まれ。1977年東京工業大学工学部建築学科卒業。1978年ロンドンのAAスクール大学院建築理論・建築史研究科、文部省給費留学。1980年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。1981年フィレンツェのランフランコ・ベンヴェヌーティ設計事務所勤務。1983年イタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学都市・地域研究科、エドアルド・デッティ教授に師事。1986年東京工業大学大学院理工学研究科博士課程満期退学。2008年より東京藝術大学教授、工学博士。
編著に『ルネサンスの演出家ヴァザーリ』白水社、著書に『イタリア都市の諸相――都市は歴史を語る』刀水書房、訳書に、パウル・ファン・デル・レーほか著『イタリアのヴィラと庭園』鹿島出版会など。